2000年2月10日作成 2012年3月30日、2017年4月8日改訂
(c) Naoko Nishimoto, all rights reserved.
現存する古代家具は大部分が古代エジプトの例で占められている。乾燥気候が木製品に特殊な環境を与えており、他地域では消失してしまった木製家具を驚くほど完全な姿で現在に伝えている。古代家具はほとんどが木製品だったのである。
古代の家具を考えるには、大きく木工史と家具史の二つの視点がある。家具史研究は基本文献も少なく、まだ未成熟な分野といえるが、生身の人間の生活道具としての側面、象徴としての側面を常に共に見て行く必要があるだろう。
古代家具史研究の基本文献としては20世紀中盤に出されたH.S.Baker著、"FURNITURE IN THE ANCIENT WORLD"を越えるものはまだない。アメリカ家具会社社長であったベーカー氏が大勢の研究者を雇い、中国・インドを除く古代文明の家具について纏めあげた350ページに及ぶ膨大な本著であるが、これも冒頭からの約150ページをエジプトの家具に割いている。
古代エジプトの家具史には例証の数だけでなく、研究の視点から見逃せない特色がある。それはまさに文明の絶頂期・新王国時代の、王族・貴族・地方豪族・庶民と言った当時の社会階級の家具がほぼ一式出揃っていることである。こうした研究環境は他の古代文明ではまず適わない。これにより当時、階級によって厳格な様式のタブーがあったことが判明し、その一方で、様式とは無関係の実用本位の意匠が育っていたこともわかってきた。古代エジプト家具史を大掴みに捉えると、古くは紀元前4000年頃から始まり、初期王朝時代から中王国時代の前半2000年間で家具製作技術が完成をみる。新王国時代をピークとする続く1000年間に独特な意匠を花開かせるが、続く末期王朝時代からの1000年間は新しい展開を見せることなく幕を閉じる。豊富な例証から我々は古代エジプト家具の様式をある程度認知することができるが、例えば中王国時代などの例に、ごくわずか異質な意匠要素を持つ例が混じっており、周辺地域の意匠との交流があったのではないかと見られている。これは今後の興味深いテーマを提供しており、家具が外国の諸王への献上品としての交易品であった事を読み替えれば、物流と共に文化を他地域に知らせる広告塔となった可能性があるのではないかという研究者が出てきた。
このページでは、古代家具研究の現在についてご紹介していこうと思っている。 皆さんのご意見・ご感想などもいただければ幸いである。
古代エジプトの家具と私の出会いは、ふとした契機で手に取ったGeoffrey Killen著“Ancient Egyptian Furniture Vol.I"にあったが、その時私を惹きつけたのは、折り畳み式寝台の図版が描かれた1ページであった。1995年に新宿・東京ガス主催で行われた”再現!ファラオの生活”展で、幸運にもこの複雑な家具を復元展示する機会を得た。製作にあたりIDEEの黒崎輝男社長に大変お世話になった。 木・布紐・金属のハイブリッド構造であるこの折畳み機構は、現代の工法をもってしても大変手のかかるものであった。いくつかの新たな疑問や発見があったが、それを纏めるのに5年も掛かってしまった。製作途中、デザインの最先端を目指しながら、こうした復元プロジェクトに快く協力して下さるIDEEの姿勢に敬意を感じさせられた。現場で製作に腐心して下さったIDEEの深田さんにもここで改めて感謝したい。ではまず、自己紹介を兼ねて折り畳み式寝台についての拙稿をご紹介させていただくことにする。
また、2000年よりトリノ博物館にて新王国時代・カーとメリトの家具の実測調査を進めているが、今後これまでの実測結果を随時纏めていこうと考えている。最初に、二人の家具の中でもそのサイズと珍しい縦型の形態で目を惹くメリトの鬘箱について2012年3月に纏めることができたのでまずはPDF(10MB)をissuuにてご紹介させていただくこととさせて頂いた。ご意見など伺うことが出来れば幸いである。
Naoko NISHIMOTO
Abstract:
Among the famous collection of the Ancient Egyptian woodwork in the Museo Egizio in Turin, a set of chairs, beds, boxes and other items including lamp stand, found at the tomb of the architect Kha and his wife Merit, would be eminently remarkable. The paper examines the wig box of Merit in detail from the viewpoint of woodworking technique. The box seems to be the largest and tallest of its kinds as a wig container throughout the pharaonic period, particularly assembling work on the connection of four legs to the box is noteworthy.
Keywords: Ancient Egypt, New Kingdom, Deir el-Medina, furniture, woodworking joint, dynamics.
はじめに
2、既往研究
図1
図4
3、折り畳み式寝台の構成
図11
図14
図20
このホームページ作成の責任者は西本直子です。
ページ構成に関する御意見は西本直子 kronos@air.linkclub.or.jp まで御連絡ください。
古代エジプトの都市テーベの西岸にある王家の谷を、カーナヴォン卿から資金援助を得て発掘していたH. カーターは、1922年にトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)王の墓(KV-62)を発見した。トゥトアンクアメンは古代エジプト新王国時代の第18王朝末期に若くして王位についた統治者であるが、その在位期間は短く、唐突の死を迎えて慌ただしく埋葬されたと考えられている。にも関わらず、この王墓からは実に多くのさまざまな副葬品が出土し、それらはエジプト学の発展に大きな寄与をもたらすこととなった。まず第一には古代エジプトにおける王の葬制に関する稀少な資料を提供した点で、この王墓の発見は特筆されるべきであろうが、しかし家具史を扱う立場からも、ここから見つかった調度の一式は大いに注目され、古代の家具を語る上では今日、トゥトアンクアメン王の墓から見つかった玉座や華麗な寝台(ベッド)はもはや欠かすことのできない存在となっている。新王国時代の家具としてはトゥトアンクアメン王の遺品以外にも、例えば同じ第18王朝末期の王、アメンヘテプ3世の妃ティイの両親であるイウヤとテュウヤの墓(KV-46)から発見された家具の一式(i)が有名であるが、それらの他にも、王家の谷の墓の造営に携わった石工や彫工、画工などの労働者たちが集団で生活を送ったディール・アル=マディーナの遺跡(ii)からは、「王に仕えた建築家」という称号を有し、おそらく労働者たちの指揮に当たったであろう貴族カー(TT-8)の墓内より寝台や椅子などの副葬品が見つかっており(iii)、さらには労働者たちの集合住居からは作業机や腰掛けなども出土している(iv)。この時代の家具についてはそれ故、最高位の権威の象徴が求められたはずの王のための生活調度と副葬品として造られた家具の一式、王の親族たちのための家具、王に仕えた貴族たちが副葬品として墓に納めた椅子と寝台の類、そして労働者たちが用いた実用的な机と腰掛けといった一揃いを通覧することが可能なのであって、社会階層の隔たりや、あるいは実用か祭儀用かという相違により、家具の意匠にさまざまに異なった展開が繰り広げられるさまを明確に看取することができる重要性は強調されてよい。同一の時代においてこれほどまでに多種多様の家具が発見されている例は、古代ではエジプト以外の地域でうかがうことができず、きわめて貴重である(v)。エジプトの家具は当時の隣国にも良く知られていたらしく、華麗な家具が数多く制作された新王国時代にはエジプトで作られた家具はまた、バビロニアやアルザワの王たちへの贈答品として届けられるほどの価値を有していた(vi)。これらの家具においては精妙な意匠上の創意の他に、異種の材料を組み合わせる際の構法上の注意深い配慮、あるいは効果的な力学的補強を目立たぬように挿入する方法など、さまざまに努力が重ねられた痕跡がうかがわれることが多く、家具研究家ばかりではなく、広く意匠に関わる者の興味を強く惹きつけてやまない。 H. カーターによってNo. 586という番号を付された折り畳み式の寝台(折りたたみベッド)(vii)は、それらの中でも最も注意を惹く家具のひとつであり、寝台の枠木の4箇所に青銅製の蝶番を取り付け、寝台の全体がZ字型に折れ曲がって折り畳めるように造られている。古代エジプト新王国時代に属する寝台は現在までのところ10数台が出土しており(viii)、またこれ以前の時代における寝台についてもいくつか知られている(ix)が、このような特殊な仕組みが施されたものは非常に珍しく、上エジプトのゲベレインで発見された第18王朝に属すとみなされる約30cmほどの長さを持つ2つ折りの寝台の模型(米国メトロポリタン美術館所蔵(x))を例外とするならば、古代エジプトの長い王朝時代を通じてまったく類例を見ない。絵画資料においてもこの種の寝台が描かれた例は皆無であって、ここでは非常に稀有な家具である王のためのこの寝台を取り上げて、主として工夫のなされた痕跡に注目しつつ、観察されるいくつかの特徴を記すこととしたい。
残念ながらカーター自身は、発掘によって得られた知見を一般向けの著作としてまとめ、刊行はおこなったものの、最終調査報告書を出版することはしなかった。最終報告書の刊行をめざして作成されたと思われるカーターによる出土遺物カードは現在、英国オクスフォードのアシュモレアン博物館グリフィス研究所に保管されており、ここにはまたカーターがメトロポリタン美術館の写真家H. バートンに依頼して撮影がなされた多数の出土遺物の写真も収蔵されている(xi)。これらの未刊行資料に基づいて、トゥトアンクアメン王の墓から出土した遺物に関する調査報告書を叢書として出版しようとする企画が同研究所によって立案され、すでに十数冊が刊行済みである(xii)が、家具については未だ報告がおこなわれていない。折り畳み式寝台は現在、保護のためにガラスケースの中に納められてカイロのエジプト博物館に収蔵されており、実測調査の許可の交付には困難が伴う実情にある。本稿は将来なされるであろう詳細な調査に先立って必要とされる既往研究の検討と、ガラスケース内に展示されているこの寝台の観察結果を整理しつつ進められた論考であり、実測結果などから導かれるさらなる研究の進展によっていくつかの点が改められることは予想されるものの、現段階において入手が可能な、限られた数の資料から得ることのできた新たな知見について述べることとする。
折り畳み式寝台はトゥトアンクアメンの王墓内の副室(アネックス)と呼ばれる部屋の南側で、畳んだ状態で発見された。出土遺物カードにはカーターによる全体のスケッチが描かれ、そこには蝶番の部分拡大図と短い注釈も添えられている(xiii)。写真に関してはH. バートンによる発見当時の副室(アネックス)室内の状況を伝えるもの(xiv)の他に、この寝台の折り畳められた状態と拡げられた状態、及び外折りの二重蝶番の詳細が撮影されており(図1〜3)、ともに得難い資料となっている。
図3
Ch. デローシュ・ノーブルクールは上記の内容を踏まえつつ、アクエンアテンの死後にアマルナが放棄されて他の地に遷都がなされた時、この寝台が三角形の蓋を持つ長柄付きの大箱(Carter No. 32)や、かつらを納める箱(Carter Nos. 547+615)など、明らかに移動の際に用いられたと考えられる家具とともに、新たな都へと運ばれたらしいと推測している。またテーベ以外にトゥトアンクアメン王の名前を記した遺物が出土しているメンフィス、マディーナト・グローブ、アビュドス、ファイユームといった都市名を挙げ、当時、統治者の慣習としておこなわれていた諸都市の巡回について注意を喚起し、この長距離にわたる旅程の際にこの寝台が用いられたかもしれないという点も仄めかしている(xvi)。
さて家具史の視点から初めてこの寝台に関する考察を記したのはH. S. ベーカーである。家具会社経営の経歴を有する彼は、作り手の立場からいくつかの鋭い見解を述べており、例えば折り畳みの時にかかる力を考慮しているために通常の寝台と比べ、太く造られている部位があると指摘している点などは注目されよう(xvii)。また18世紀にイギリスで見られたマホガニー製の折り畳み式寝台との類似の指摘も興味深い。発見されている折り畳み式寝台の例が限られていることに留意しつつ、前述の模型に言及し、こうした類例が当時、他にも存在したらしい点についても書き記している。
G. キレンもまた家具制作家であって、古代エジプトの家具を包括的に扱う全3冊の著作の刊行が開始されており、現在までそのうちの2冊が出版されている(xviii)。寝台は第1冊目で取り扱われ、トゥトアンクアメン王の折畳み式寝台の図面がここで初めて公にされた(xix)。ただし、蝶番の詳細図なども掲載されているものの、おそらくはグリフィス研究所所蔵の写真を参照しながら部分的な推測を交えて作図がなされたと思われるふしがあり、多少訂正を要する箇所が見られる。特に外折りの二重蝶番を示したp. 34、Fig. 17では、折り畳んだ際の枠木の隙間が第2脚の幅より狭く、このままでは脚が折り畳むことができない。本稿の図3、4は、グリフィス研究所所蔵の写真や、著者によりカイロのエジプト博物館で撮影された写真、及び発見当時のカーターのスケッチなどをもとにしてキレンの図に修正を加えたものを掲げた。
図5
H. G. フィッシャーは「エジプト学事典」における「寝台」の項目においてこの折り畳み式寝台に触れているものの、残念ながら記述は短い。またその類例が存在したらしいというベーカーの推測に対しては、これを追認する論旨を記している(xxi)。彼は「家具」の項についても「エジプト学事典」において執筆しており、基本的な参考文献を網羅しつつ、特に椅子に関して深い造詣を示している点が目を惹く(xxii)。 P. デア・マニュエリアンは古代エジプトの家具に関する概説を2編発表しており、それぞれ寝台については記述が少ないが、家具一般についての要領を得た説明は有用である(xxiii)。
概要
古代エジプトにおける寝台の構造は、枠木の形式により大きく二つに分類することができる。第1の形式は、人間の身体にほぼ見合う長さと幅を寸法とする長方形の枠木が組まれ、枠木を貫通するように脚がその各々の隅角部の下面からほぞ入れされて寝台を支承するものである(図5)。この形式は先王朝時代から存在した。 第2の形式は脚が四周を回る木枠に優先して立ち上がり、枠木が脚に対して水平にほぞ穴接ぎされる方式である(図6)。この場合には直交する枠木のほぞ同士が、脚の内部で直接出会うことのないように、ほぞ位置は上下にずらされて配置される必要があった。脚が座面から突き出ることになるこの第2の素朴な形式は、構造に対する合理的な精神から生まれた意匠と言えよう。職人の町ディール・アル=マディーナから発見された実用的な寝台に、この形式が見られる。
王族や貴人のための寝台の支えとして動物の脚を模したものが用いられる際にはしかし、脚の上端が切断されているかのような外観を呈するこの第2の形式ではなく、必ず第1の形式による方法で枠木と4本の脚とが固定された。これは動物の脚とその上に載る寝台との接合部に、形態上の連続的な一体性が求められた故の意匠上の工夫であると見られる。
寝台において人が横たわる面には、枠木の内側に連続して開けられた小穴に亜麻布や革紐、葦、パピルスの乾燥した茎などから作られた紐を通して網細工が編まれた。枠木の矩形内部の全体を覆うように網細工が施され、これが人間の体重を柔らかく受け止める役目を果たしている。新王国時代では、寝台の枠木を構造的に補強するために、通例2本の横木が渡されて枠木を緊結している。この横木がもし直線材であったなら、横たわる者の背骨に当たって快適性をはなはだ損なうものとなるから、これを避けるために周到にも横木はことごとく緩く撓められて長手の枠木同士を繋ぐとともに、網細工に対して適当な緊張力を与える役目も付された。
古代エジプトの寝台には現代のものと同様、片側の端部に丈の低い板が立てられているが、今日の寝台では板の方に頭を向けて横たわるのとは逆に、当時はこちらに足を向けていたことが絵画資料などから明らかにされている。従ってこの板を指してヘッドボードと言うのは適当ではなく、フットボードと呼ぶべきであろう(xxiv)。 この他の構造補強部材としては、前脚同士と後脚同士を固めるための貫材や、また寝台の枠木と脚、及び寝台枠木とフットボードのほぞ穴継ぎによる接合部に、さらに肘木と呼ばれるL型の補強材が付け加えられて接合強度が高められた。寝台は厳密には水平ではなく、ごくわずか傾けられて頭の方を高く上げる意匠がうかがわれる(xxv)。新王国時代では寝台の上面を直線状に仕上げずに、頭部に向かって緩やかに湾曲しながら迫り上げていく特徴が顕著である(xxvi)。
さてトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台では、使用材料に多少の難が看取される。特に寝台の枠木では死節が抜け落ちたと思われる丸い窪みが見られ、そこに白色の充填材を詰め、仕上げに白色系の塗料を薄く塗った形跡が認められる。フットボードにおいても同様に、虫喰いのような欠損部を補修した跡が散見された。この折り畳み寝台の主要構造材については、枠木が三分割される特殊な仕組みを持つことから、割れや捩れの少ない材質が望まれたらしく、またリーヴスが述べているようにこの寝台の用途より、同時に素材の軽さについても充分考慮されたふしがうかがわれる(xxvii)。古代エジプトで使用されたと推定される樹種のうち、比較的軽い家具用材としてはヒマラヤスギ属、イトスギ属の輸入材と、ナイル川沿いに成育していたと考えられているヤマナラシ属などが挙げられよう。一方、古代エジプトにおいて多用されたと言われるヒマラヤスギ属の中でも、レバノンスギは特にその耐久性と芳香を有することから、王族の木棺などに好んで使われて珍重された(xxviii)。この折り畳み式寝台では木枠の上塗りが剥落しており、一部現れた下地の木目で針葉樹の明瞭さをやや欠いている点が注意を惹くが、若いレバノンスギの場合も、同じように板目の木目があまり目立たない例がある(xxix)。レバノンスギは加工性が良い反面、比較的傷つきやすい柔らかい材であることが知られている。このため、微細に彫刻され、また酷使されるはずの折り畳まれる脚部分などではむしろ、同様に輸入されていた木目が細かく堅い広葉樹が用いられたのではないかとも推測されるのであるが、目視での判断は困難である。
枠木
枠木の裏側を観察するならば、網細工部分の留めつけに使用される穴が開けられている部分だけは、下面が一段欠き込まれて厚みが薄くなっていることが了解され(図7)、これは必要最小限の断面にそぎ落として全体の軽量化を図るとともに、網細工の紐を緊結しやすくする工夫の結果と思われる。寝台の立面で脚から枠木へと滑らかに繋がる曲線部分は枠木内側の一段薄くなった箇所とは独立した造形部位として扱われており、一本の枠木の内側と外側を意匠的な部分と機能的な部分とに区分し、造形の処理を施している点は注目される。枠木下面の内側の厚みを減じるこの工夫はトゥトアンクアメン王の墓から発見された6つの寝台すべてに共通する他、イウヤとテュウヤの墓から見つかった寝台などでも同様に施されており、入念な仕上げが要求される寝台においては必ず考慮がなされたに違いない。
この折り畳み式寝台の枠木の長辺はトゥトアンクアメン王の身長とされている167.6cm(xxx)より10cmほど長い(図8、9)。当時の寝台は一般的に170cm内外の例が多く(xxxi)、通常は寝台の枠木の内側に補強のために二本の横木が挿入される点は前述した。トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の場合にはしかし、折り畳むために要所に蝶番(図8中のM、N)を付け加えなければならなかった。これは人間の体重を受け止める役割を担う主要構造材としての枠木を、Z字型に折り畳むことができるように全体として3つ(図8、I、II、III)に分断することを意味する。3つの枠木を蝶番で繋いで一つの架台にする際の構造的な弱点に対処するために、この寝台の制作に携わった家具職人は寝台にかかる荷重を直接、脚に伝えることができるように、蝶番の真下に新たな4本の脚(図8、第2脚と第3脚)を加える工夫をおこなっている。また、3つの枠木の構成材のうち、寝台中央部に位置する横枠は、一般的な寝台における補強材としての横繋ぎ材(図6)に倣い、横たわった人の体と直接接触しないように、撓められて取り付けられている。その配置についても、折り畳んだ際に寝台の下方に撓められた横木同士がぶつからないよう、また折り込まれる脚とぶつからないように勘案しなければならず、慎重な検討がなされたはずである(図10)。横繋ぎ材の平角断面は角を丸められ、柔らかい形態に整えられており、ここでも隅々にまで行き渡った意匠上の配慮を看取することができよう。
獅子脚
寝台の脚には、円筒形の台の上に載せられた獅子の脚を模した様式が見られるが、フィッシャーが詳しく述べているように、古代エジプトの家具において獅子脚には地位や身分の尊厳を象徴する重要な役割が担わされており(xxxii)、早くは第4王朝時代の浮彫で貴人が獅子脚の腰掛けに座っている姿がうかがわれる。獅子脚を模した様式は特に新王国時代で流行し、入念な細工がなされて前脚と後_rとの区別はもちろんのこと、特に前脚に関しては左右の識別が可能なほど、きわめて写実的な彫出が施された。これは古代エジプトにおける家具の大きな特徴であり、家具全体を獅子の体躯と見立て、獅子脚の向きは忠実に一方向に揃えられる。獅子脚を有する家具は西アジアでも盛んに作られたが、脚が放射状に配される例も多く、そこでは省略化と類型化の進んだ形態が用いられている(xxxiii)。
おそらくは通常の枠木の四隅の下に加え、4箇所の蝶番の真下にも獅子脚を付加せざるを得なくなった時に、この寝台の制作を担当した家具職人には新たな難題が課されたのではあるまいか。ゲべレインで発見された寝台の模型では蝶番の下に2本の脚が加えられており、合計6本の脚によって支持されていた。ただし全ての脚には断面が丸い簡素な形式のものが用いられた(xxxiv)から、さほど大きな問題は生じなかった。一方、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台では、王の威厳にふさわしい高貴な象徴性が付与されねばならなかったはずであって、王が所有する寝台に獅子脚以外の形式を用いることは、ほとんど考えられなかったであろうと思われる。この寝台の制作を担当した者たちはそれ故、8本の獅子脚を有する寝台を作ることを強いられ、なおかつそれらの脚の意匠については実在する動物の脚を真似て前後左右の脚を作り分け、写実的な造型を施さねばならなかった。しかしその際に参照すべき8本脚の動物が当時、この世に棲息していたとはとうてい思われない。
家具職人たちによってここで考案されたのは、この寝台の中間に位置する4本の脚、すなわち第2脚の左右と第3脚の左右の脚に対し、前脚と後脚の特徴を折衷した彫刻を施すという窮余の策であったようにうかがわれる。通常、王族の家具などに見られる格調高い例では動物の脚の形態が克明に写し取られ、獅子脚の場合においてはネコ科の動物が持つ前脚の退化した第5指であるケヅメが忠実に彫出される(図5)とともに、全体の輪郭も前脚が比較的直線状に伸びる一方で、後脚は関節ごとに屈曲する様子が強調される。背面に関しても前脚では半球状の肉塊が力強く彫出され、後脚では中程の高さに位置するかかと部分を焦点として、急速に狭まる砂時計状のシルエットを強調するようにアキレス腱の緊張を感じさせる放射状の線彫が表現されるなど、前脚と後脚との差異が明瞭に看取される。
脚台
新王国時代の寝台の枠木が、頭の方向に向かって迫り上がる形状を有することはすでに述べたが、この折り畳み式寝台でも、長手方向の部材には緩やかに前脚へ向かって曲線を描きながらわずかづつ反り上がる造形が施されている。この脚から頭にかけての滑らかに迫り上がる曲線は、それぞれの脚の下に置かれた脚台の高さの違いによって作り出されており、このような例は珍しい(xxxv)。おそらくは運搬上の利便性から軽く小さく造らねばならず、また折り畳むことのできる工夫の代償として不安定な構造になりがちなこの寝台の高さを抑えなければならなかった制約に基づいて、このような解決策が講じられたのであろう。脚台は左右で対となる脚の下に置かれるもの同士が木製の丸棒で繋がれており、木目の観察結果から素材は針葉樹と考えられる。脚台の出土例としてはアマルナの独立住居の寝室から見つかったものが挙げられ、四角錐状の形状を呈した石製の脚台が発見されている(xxxvi)。
繋ぎ材
寝台の前脚同士と後脚同士との間に渡される繋ぎ材(貫)は、やはりどの寝台でも見られる補強材であるが、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の場合、第1脚、第3脚、第4脚の左右の脚の間に断面が丸い貫材が渡されて、枠木を支承する脚がぐらつくことのないように補強がなされているものの、外折りの蝶番の真下にある第2脚の間だけには繋ぎ材がうかがわれない(図11、a〜c)。この脚は寝台を折り畳む際に内側に倒されて収納されるから、繋ぎ材で完全に固定するわけにはいかなかった。しかし脚の内側にほぞ穴が穿たれているのが見られ、たぶん寝台を拡げて使用している時、不用意にこれらの脚が内側に倒れたりすることのないように、ふたつの脚の間に突っかい棒の役目として取り外しのできる繋ぎ材が当初は挿入されていたと推定される。ただしカイロのエジプト博物館には現在、該当する部材が展示されていないようであり、またカーターによるリスト(xxxvii)にも、これに相当すると思しき遺物は掲載されていない。墓内に運び入れられた際にすでに亡失していたか、あるいはこの王墓が荒らされた後になされた慌ただしい整理の過程で、この部材がどこかに紛れてしまった可能性が指摘される。
蝶番
この寝台で用いられている4つの蝶番については、これらが重要な役割を果たしているがために、多少長い説明が必要である。これらは青銅の板を繋げることによって作られたらしい。箱の一面を取り去ったような形状をなし、そこに枠木を差し込んで、小釘を用いて固定がなされている。寝台をZ字型に折り畳むために蝶番は内折り用と外折り用の2種類が用意され、形状はまた左右でも異なっているから、これらを作り分けなければならなかったはずである。
蝶番はまた前側に位置するものと後側に位置するものとのふたつに分かれ、それらが心棒で繋がれている。内折り用の蝶番のうち、後側に位置するものには下面に小さな持ち送りが突き出され、これが前側の蝶番にかかる荷重を受けて、寝台を拡げて人間が横たわった時、青銅によって作られた蝶番の心棒には直接荷重がかからないように設計されている。もしこの持ち送りによって荷重を受ける工夫がなかったとするならば、蝶番の心棒は荷重に耐えきれず、すぐさま折れ曲がってしまったであろう。蝶番の内側には小さな突起とこれに対応する凹みもまた造り出されており、寝台が拡げられて蝶番が閉じた状態の時には双方が噛み合って固定される工夫も注目される(図4)。
双方の蝶番についてはキレンによる図面を改訂したものを図3、4として掲げたが、特に外折り用の二重蝶番に関しては一目見て要領が得られるという類いのものでは決してなく、複雑な形状を呈している。これを実現するためには模型や試作品を作って試行錯誤を繰り返す他に手段はなかったであろうと推測される。外折り用の二重蝶番の場合、寝台を折り畳む際には脚が邪魔となるので、家具職人たちは寝台を畳むための蝶番とは別に、寝台の内側に脚を折り込むためのもうひとつの蝶番を同時に組み込まなければならなかった。脚を折り込み、これを枠木が挟み込むようにして内側に格納するこの二重の機構をうまく成立させるためには、蝶番、折り畳まれる脚、枠木、さらには寝台の網細工との取り合い関係をすべて調整する必要がある。ともに可動する枠木と脚との調整の結果、寝台を折り畳むための蝶番は幅が縮められて、枠木の外側に寄せられているのが大きな特徴である。ここでもこの蝶番の心棒に直接荷重がかからないように、第2脚の上端に蝶番の下面が載る仕組みとなっている。
この種の寝台に属する蝶番ではないかと思われるものは、実はこれまでにもいくつか報告されている。しかしその用途が正確に見極められて、特にトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台が発見された後に、それらをまとめて論じようとした試みはなされたことはなかった(xxxviii)。
例えばペトリーは中部エジプトのグローブにおける発掘報告書の中で、ブロンズ製の2つの直方体が丸棒で繋がっている出土遺物に触れ、見取り図13とともに紹介している(xxxix)。彼はこれを扉で用いられた蝶番と推定しているが、しかし木材の端部を箱形に囲い込むことを前提としている形状などからは、扉板を扉枠に固定して開閉させる金具とは考えにくく、むしろ図4に挙げた金具と酷似する点から、これは折り畳み式寝台の内折りの蝶番であろうと判断がなされる。
ペトリーが記しているように、この蝶番にもやはり四角い突起(A)とこれに対応する穴(B)が造り出されている。だが図からうかがわれる限り、この蝶番を閉じた時に彼の言うようにお互いがうまく噛み合うとは考えられない。何故なら四角く穴が開けられている側には別の突起(C)が見られ、これが蝶番を完全に閉じる際の障害になるからである。従ってペトリーの報告している図が間違っていない限り、これは作り損なった蝶番であるとみなす他ないと判断される。この蝶番の下に突き出ている部分(D)は、前述の折り畳み式寝台の例から推察するならば、ここには本来、脚が嵌め込まれるように意図されたと考えられ、従って図示された蝶番の左が寝台の内側となる。小釘のための小さな穴も、紐を通すための大きな穴も開けられていないようであって、こうした特徴からもここに掲げた蝶番が失敗した作品であり、実際には使われずに廃棄された金具であったかもしれないという点が示唆される。 折り畳み式寝台の蝶番は内折り用と外折り用の区別があり、また各々に左右の別があるので、その形状から装着位置を特定することが可能である。蝶番を固定するための突起の位置などから判断して、グローブから出土したこの蝶番は、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台における第3脚の左側の脚の上に備えられた蝶番に該当すると考察される。
ペトリーによる見取り図では縮尺が明示されていない。しかし蝶番を閉じた時に固定されるように工夫された突起と穴の寸法が、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の場合と比べて非常に大きい点は明らかである。蝶番を閉じた際の固定のみを意図するならば、この突起は小さくても充分役目を果たすことができ、その意味ではグローブで発見された蝶番よりもトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台で見られる蝶番の方が無駄な部分が少なく、意匠的に優れているという印象を強く受ける。もうひとつ、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の蝶番(図4)との大きな違いは、枠木内側の下面が一段欠き込まれて厚みが減じられていないことである。トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の場合には、枠木内側の下面が描く曲面に従って青銅板が巻かれているのであり、ペトリーが報告している蝶番においては内側下面に欠き込みのない長方形断面の枠木を想定して造られている点が明瞭である。
なお年代については、ともに出土した特徴的な土器の形態から判断して第18王朝末期と推定されている (xl) 。輸入品であることを示すミケーネ様式の見事な容器が2つ出土している点は、これらの遺物の所有者が高い地位にあったことを示す。
さてニューヨークのメトロポリタン美術館は、リシュトにおける1933〜1934年の発掘調査において、古代エジプト中王国時代の王センウセルト1世のピラミッドの近くから、潰されたり折り曲げられたりした70点ほどのブロンズ製あるいは銅製の器、工具、板製品などを発見した。これらは亜麻布に包まれて撚り糸で括られた上に封泥が施され、さらに編み籠の中に納められていた。ヘイズは、このうちの多くのものがトトメス時代、すなわち第18王朝前期のもので占められるであろうとする示唆をおこなっている (xli)。この地の再発掘を今日手がけているアーノルドは近年、変形したこれらの金属製遺物を当初の形状に復原して詳しく報告した (xlii) 。潰された金属製品が集められていたのはアーノルドが述べているように、もう一度溶かして再利用するためであったろう。注目されるのは、亜麻布を括った撚り糸に押された封泥の押印にトゥトアンクアメンの王名が認められる点であって、これにより、包まれていた金属製品の年代の下限が示されることになる。
これらの金属製品の中には、いずれも折り畳み式寝台の蝶番と判断がなされる4つの遺物がうかがわれる。現在はそのうちの3つをメトロポリタン美術館が所有し、残る一つはカイロのエジプト博物館が所有している。メトロポリタン美術館収蔵作品を中心に紹介しながら古代エジプト美術史を辿る著作を書いたヘイズが、これらを折り畳み式寝台のための蝶番であると正しく認識していたことはその著作中の記述から明らかである (xliii) 。だが彼はこれらの蝶番を、メトロポリタン美術館が所蔵する折り畳み式寝台の模型とは結びつけて考えているものの、奇妙なことにトゥトアンクアメンの王墓から見つかった折り畳み式寝台の蝶番とは、特に関連づけていないように見受けられる。またペトリーが報告している遺物にも言及していない。一方、アーノルドはペトリーの報告については言及しているものの、ヘイズが4つの遺物について折り畳み式寝台のための蝶番であると見做していたことを見落としており、これら4つの遺物の復原図に付されたキャプションでは、ペトリーと同じように扉の蝶番であると説明をおこなっている。以上の資料は相互に結びつけられて語られることがなされなかったのであるが、これらがトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の蝶番と酷似する点は疑いないところであって、詳細な比較検討がおこなわれるべきである。 MMA34.1.58はブロンズ製の板を折り曲げて作った蝶番の断片であり、小釘を打つための穴とともに、紐を通す穴がドリルによって開けられている。心棒を通すための軸受けの部分はハンダ付けによって接着されている。アーノルドによって提示されている図面に基づき、折り畳み式寝台で用いられている蝶番を参考にするならば、図14のような当初の形状が想定されよう。四角い穴を切り欠いたような痕跡が観察されるが、これは蝶番を閉じた時に固定するように設けられた突起を受けるものであると見られる。ただし、その位置はグローブから出土したものと比べるといくらか中央に寄せられている。蝶番を固定するための突起と穴の大きさは幾分大げさで、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台にあってはこれよりも洗練された方法で解決がなされている点については先述した通りである。穴と軸受けの位置、及び蝶番を固定する穴の存在などから、折り畳み式寝台における第3脚左側の脚の上に設けられた蝶番のうち、前側のものに該当すると推定することができる。
完形品であると思われるMMA34.1.59には、前述のMMA34.1.58と同様に四角い欠き込みと小釘のための穴、またドリルで穿たれた大きい穴が観察される(図15)。折り畳み式寝台でうかがわれる第3脚左側の位置にある蝶番の前側のものと形状は似ており、大きな穴は網細工を編む際の紐を通すための穴であろうと推察される。四角い欠き込みの位置に関しては、MMA34.1.58と比較してやや外側寄りであり、グローブから発見されたものと相似を示す。断面形状が長方形である枠木の端部に装着することを前提としている点は明らかであり、ここでもトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台との違いを見出すことができよう。
アーノルドはMMA34.1.59とMMA34.1.60との形状から想像される組み合わせの復原図を掲げている(図17)が、もちろんこの図には不自然な点がうかがわれ、これら双方は本来組み合わされることがなかったであろう。これはMMA34.1.59における四角い穴と対応する箇所に、MMA34.1.60では突起が見られないという点だけに起因するのではなく、MMA34.1.59における心棒から下面までの長さとMMA34.1.60の心棒から持ち送り上面までの長さが合致しないという矛盾点からも指摘され、この両者の長さが一致して、MMA34.1.59にかかる荷重が正しくMMA34.1.60の持ち送り部分に支承されない限り、荷重はすべて心棒が負担する結果となってしまい、MMA34.1.60の下方に持ち送りを設けることは意味をなさない。軟らかい金属である青銅製の心棒はこの時、容易に折れ曲がってしまうのである。
JdE63912(図18)はその形状や穴の位置から、第3脚の上に位置する前側の蝶番であると推定される。小釘のための穴や網細工を編むための紐を通す穴は穿たれているものの、グローブから出土した蝶番やMMA34.1.58、MMA34.1.59にうかがわれたような噛み合わせのための四角い穴を切り欠いた痕跡は見られない。MMA34.1.59と比べ、幅も小さく作られている。グローブの蝶番やMMA34.1.59などと同様、長方形断面を有する枠木を前提として造られたものと想像される。
以上、ペトリーとアーノルドが報告をおこなった5つの蝶番について、ここでまとめておくことにする。これらは木材の端部を箱形に包む形状や、小釘の穴の他に穿たれている大きな穴の存在など、扉を開閉するための金具と考えた場合には理解に苦しむ点が指摘され、むしろトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台で用いられている第3脚の内折りの蝶番との形状の酷似に着目すべきである。これらは折り畳み式寝台の蝶番として制作されたとみなすのが自然であり、グローブから出土した蝶番、MMA34.1.58、MMA34.1.59の3つには、蝶番を閉じた際に固定するための噛み合わせの突起、もしくはこれと対応する穴が見られるが、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台ではより洗練された方法で同じ課題を解決している点が意匠上、重要である。
グローブから出土した蝶番については、ペトリーによる図を信じるならば、作り損なったものと判断せざるを得ない。年代は第18王朝末期であって、トゥトアンクアメン王の治世年ときわめて近い点は注目される。
トゥトアンクアメンの王名が押印された封泥とともにリシュトから発見された4つの蝶番は、出土状況から見て、不要になったため廃棄されたものとみなされる。MMA34.1.59とMMA34.1.60についてはアーノルドは組み合わせた復原図を掲載しているものの、寸法が合わない部分がうかがわれるから、この2つはそれぞれ別のものと組み合わされた可能性が高い。JdE63912には蝶番を閉じた際、固定するための噛み合わせの工夫が見られないので、実際に寝台に装着されないまま廃棄されたとも考えられよう。
さらにトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台のみならず、同時代の多くの寝台で見られるような枠木の下面内側を彫り窪める工夫が、グローブの蝶番やMMA34.1.59、JdE63912においてうかがわれない点は、これら5つの折り畳み式寝台のための蝶番が、失敗作であるか、トゥトアンクアメン王の墓で見つかった折り畳み式寝台よりも洗練度の低い段階を示す作品であるか、もしくは未完成のまま廃棄されたものであるかのうちのいずれかであるという推定を補強するように思われる。
ペトリーが発掘をおこなったグローブは新王国時代において栄えた地であり、また王センウセルト1世のピラミッドの残骸が聳えるリシュトもその近郊に位置する。発掘調査の結果から、グローブには宮殿が造営されたことが推定されている (xliv) 。これら5つがグローブにごく近いところから出土している点は、この寝台が制作された場所を暗示しているのかもしれない。しかしこれを証する文字資料は皆無であって、ここではこの折り畳み式寝台と、グローブとの密接な関わりだけを指摘するだけにとどめておく。
網細工
トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台では網細工は亜麻布による撚り糸を用いて枠木と平行に平織りされているが、枠木と平行に織られる例は当時の寝台においては珍しい。通例は対角線方向に紐が架け渡されて編まれ、例えばトゥトアンクアメンの他の寝台ではどれもが対角線方向に紐が編まれている。多くの場合は紐によって対角方向に枠を引き寄せることで木枠を補強する効果が期待されたであろう。しかしこの場合、枠木は3つに分断されているから、対角線方向に編み込むことで歪みが生じることにもなりかねなかった。枠木が折れて回転する動き(図19)への耐久性が考慮されたためか、網細工は他の例と比べて密に編まれており、さらに網細工部分も含めて寝台全体が漆喰または白い塗料で塗られている (xlv)。これには網細工をしっかり固める目論みや防虫効果などが図られていたと思われるが、また何より美的な効果もあったであろう。
図20はこの寝台の裏側における網細工の様子を示す伏図であり、1998年と1999年にカイロのエジプト博物館を訪れた際に詳しい観察がおこなわれた。ここでは12本の紐が使われている。ところどころには紐の結び目(図中では三角形で示されている)がうかがわれ、それらの配置をもとにして、枠木内側に穿たれた小穴に紐がどのように通されて網細工が編まれているかを推察し、これを模式的に図示した。1本の紐は、実際にはさらに細い亜麻布の撚り糸を束ねてできており、網細工ではこれらを3本使い、互い違いに組み合わせて織っているのであるが、図20では煩雑さを避けて簡略化している。縦糸の結び目と、横糸の結び目の両方を持つ穴がひとつだけあり、それが図20の右下の隅角部に位置する穴である。網細工はたぶん、ここから編み始められたようにうかがわれる。
Cは内折りの蝶番同士を結んでいるだけの短い紐で、紐を編んでいく行程の中で蝶番に達する直前の位置において紐が切断されたらしいことを示している。外折りの蝶番の付近にも短い紐が用いられているのであって、同様に蝶番の手前で紐は切られている。
こうした観察結果から、たぶん寝台がほぼ完成した際に折り畳もうとした時に予想外の出来事が生じたことが推定され、枠木の内側に編まれた網細工のために、内折りの蝶番を折り曲げることができないという事態に直面したらしいふしがうかがわれる。枠木の下面において内折りの蝶番同士を緊結するような紐の通し方がなされた場合には、この寝台を折り畳むことはできなくなるのである。
外折り用の蝶番の場合においても、その周囲には網細工を編む紐を通すための穴が開けられているにも関わらず、実際には紐が通されていないものがいくつか散見される。穴が開けられているのは、もちろんそこに紐を通す意図があったからであろう。しかしそこには結局、紐が通されなかったか、あるいは紐を一度は通したものの、一旦ほどいてその穴を用いることを断念したらしい。この寝台ではその構造から、外折り用の蝶番の周囲のこれらの穴にもし紐を通して網細工を編んだとするならば、枠木に沿って一様に網細工が縫い付けられることとなり、やはり寝台を折り畳むことができなくなるのである。何故なら外折りの蝶番の場合には網細工の面と蝶番の心棒の位置とが離れるために外輪差が生じるからであって、網細工に伸展性が備わっていない限り、枠木が折り曲げられながら回転する動きに追従できない(図19)。
今まで触れてきた痕跡の様相から勘案して、網細工はおそらく中途までは編まれたものの、そのままでは寝台を折り畳むことができないことが判明したために蝶番近くの位置で紐を切り、網細工を部分的にほどいてやり直すことが強いられたと考えられよう。
網細工の場合においても蝶番の製造と同じように試行錯誤を繰り返したと思われる痕跡が散見される事実は、この寝台の制作が試みられた時、参考とすべき同様のものが少なくとも周囲には存在しなかったことを示唆している。家具職人たちは自分で考えながら制作せざるを得なかったのであり、またこのような複雑な手間を必要とする寝台が王朝時代において再び作られた明確な形跡も現在までのところ、確認されていない。
4、結語
以上、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の構成を記しつつ、同時代における類例との相違の検討を細かくおこなってきた。まず古代エジプトの伝統的な家具の様式からは、8本の脚を持つこの寝台が、作り手に少なからず課題を強いたらしいことを述べた。折り畳むために加えられた4つの蝶番の開発も難問であって、簡単な機構を持つ蝶番を付加することで済んだ模型の寝台の場合と大きく異なり、人間の体重を支えるために多くの工夫が重ねられている点を記した。
また5つの類似した蝶番が今日までに報告されている点について触れた。これまでそれらの間に関連性を認めて詳細に論じられたことはなく、これらすべてが折り畳み式寝台の蝶番であることを明らかにしながら、トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の蝶番との比較考察を図を交えておこなったのは本稿が初めてである。5つの蝶番はトゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台で用いられているものと良く似ていながらも、グローブから見つかったものは失敗作であるように思われ、残りの4つについてもトゥトアンクアメン王の墓で見つかった折り畳み式寝台よりも洗練度は低く、また未完成のまま廃棄された可能性が高いことを示した。
さらに網細工に関しては、枠木裏側に観察される結び目の位置に基づく推定により、用いられた紐の長さと紐の通し方を検討し、また蝶番の付近で切断された痕跡を指摘することによって、いったん網細工が編み始められたものの、そのままでは折り畳むことができなることに気づいて部分的に解かれ、紐が切られて蝶番を緊結することが避けられた点を述べた。
これまで触れてきた多くの工夫の跡からは、古代エジプト人たちが頭を悩ませながら試行錯誤を経て折り畳み式寝台を完成させた経緯が推察される。このことは、この寝台の作成が目論まれた際には、参考となるような3つ折りの折り畳み式寝台が少なくとも制作に携わる者たちの周囲に知られていなかったことを物語っている。トゥトアンクアメン王以前の時代に2つ折りの寝台は、ゲべレインの模型から憶測されるように、あるいは存在したかも知れない。しかし3つ折りの寝台はトゥトアンクアメン王の時代に試みられた新しい形式の寝台であったと思われ、またその開発には2つ折りの寝台と比較できないほどのさらなる複雑な工夫を必要とした。ゲべレインの2つ折りの模型の出土を唯一の根拠として、トゥトアンクアメン王のもの以外にも3つ折りの寝台が存在したであろうと仮想することは早計であり、今まで吟味してきた諸点から、3つ折りの寝台は、トゥトアンクアメン王の時代になって初めて創作が試みられた作品であることが強く示唆されよう。
試作を重ね、苦労して造られたに違いないこの寝台はしかし、王の若い死とともに墓内へ納められ、人々の眼の前から姿を消すこととなる。以後、同様のものが再び造られたことを示す資料はまったく見つかっていない。きわめて稀有な家具であったこの折り畳み式寝台は、こうしてその存在を完全に忘れ去られるのである。
The Folding Bed of Tutankhamun
Naoko Nishimoto
Many pieces of furniture have been unearthed from the tomb of Tutankhamun (KV-62) discovered by H. Carter in 1922. As the furniture of that era has a great variety of similar instances, we can clearly distinguish the differences of social levels and the changes in design according to distinction of usage between functional and ritual. Their contribution to the study of ancient furniture history is noteworthy. In particular, the furniture yielded from the tomb of Tutankhamun attracts not only furniture researchers but all others involved in design in a broad sense. They notice many traces of various efforts from the exquisitely creative designs, the combination of differing types of materials with careful consideration to structure and the way to secretly insert dynamically effective reinforcements. Among them, the folding bed numbered 586 by H. Carter is one of the most attractive pieces of furniture. The bed is constructed to fold into a Z shape with four bronze hinges attached to the bed frame. A bed with such a special design is very rare and this is the only one throughout the long dynasty period of Ancient Egypt, except other models yielded in Gebelein, which are considered to belong to the 18th Dynasty. Even in drawing materials there are no examples of such beds.
Currently, for protection, the folding bed is kept within a glass case at the Egyptian Museum, Cairo. Because of this situation, it is difficult to get permission for actual measurement or survey. So in this article I have examined the past surveys which seem essential before the proposed detail examinations and classify the observational results on the bed. Also, I refer to the new information obtained from a limited amount of materials available at present, even though revisions are expected after actual measurement.
One of the most distinguished points of Tutankhamun's folding bed is that many wooden stretchers were inserted to cope with the weakness caused by cutting the length of the frame, the main structural support that takes the whole weight of the occupant. The other point is that an additional four legs were placed directly under the hinged folds in order to help support the load. This invention, however, developed a new problem for Ancient Egyptian furniture expression. For the craftsmen, who carved all furniture so naturalistically to resemble real animals with distinguishable front and rear legs or right and left legs of the four lion legs on furniture, a special solution was needed to construct an eight-leg bed. Probably they had no objection to regard the first pair of legs as front legs and the fourth pair as rear legs. The problem was the kind of style needed for the second and the third pairs. They solved it by giving more rear-leg features to the second and more front-leg features to the third, although they incorporated both styles, to solve worries about appearances in the folded position.
Then, two types of hinges were needed; folding inwards and outwards, with differences for right or left sides. As for hinges folding outwards, it was necessary to design an intricate system, because such legs had to be folded inwards at the same time. The design for this system was probably finalized after many trials. Five similar hinges were yielded at Lisht and Gurob, but all of them are considered less complete or inferior to the refinement of design when compared with those used for the folding bed of Tutankhamun. They are likely to have been trial products.
There is a woven mat parallel to the frame with a set of three thin-cut, linen strands, none actually passing through the holes around the outward folding hinges, even though there are some holes allowed for stringing and not used after all. The bed could not have folded if the strands had been passed through the holes. The same is true for the inward folding hinges, and we can recognize a trace of cut strands at the back of them. Again, it is understood that the bed cannot be folded with this mechanism if the strands are passed through to tightly bind the hinges to one another.
From the above mentioned traces, I can assume the process by which Ancient Egyptians somehow found a solution and completed the folding bed after trial and error. This tells us the fact that at least the craftsmen and designers did not have any three-fold beds for reference when first constructing. There might have existed a double-fold bed before the Tutankhamun era. But we can assume that the three-fold bed was a new form of bed, first constructed in the era of Tutankhamun and for its development a more complex structure was required than for any two-fold bed. The bed, which must have been produced after many trials and efforts, was buried in the tomb with the death of Tutankhamun and disappeared from public view. No materials have been found that suggest any production of similar beds after that. Thus, this folding bed, which was a quite rare piece of furniture, was consigned for burial and oblivion.
註:
(i) T. M. Davis et al., The Tomb of Iouiya and Touiyou, London 1907, 37-44, pls. 33-37; M. J. E. Quibell, Tomb of Yuaa and Thuiu; Catalogue général des antiquités Égyptiennes du musée du Caire, nos. 51001-51191, Le Caire 1908, 50-54, pls. 28-43. (本文に戻る)
(ii)集合住居の創建は第18王朝時代まで遡るが、大多数の遺物は第19〜20王朝に属する。B. Bruyère, Rapport sur les Fouilles de Deir el-Médineh 1922-51: Fouilles de l'Institut Francais d'archéologie orientale du Caire I, 1; II, 2; III, 3; IV, 3; 4; V, 2; VI, 2-3; VII, 2; VIII, 3; X, 1; XIV-XVI; XX; XXI; XXVI, Le Caire 1924-53. (本文に戻る)
(iii) Cf. E. Schiaparelli, La tomba intatta dell'architetto Cha nella necropoli di Tebe, Torino 1927, 112-129. (本文に戻る)
(iv) Cf. B. Bruyère, op. cit. note (ii), passim. ディール・アル=マディーナにおける家具の値段についてはJ. J. Janssen, Commodity Prices from the Ramessid Period: An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes, Leiden 1975, 180-196を参照。テーベの広大な墓域において、現在ではその墓の所在が不明となっているペリパウトという名を持つ人物の副葬品の家具類も有名である。P. Piacentini, "Il dossier di Perpaut", Aegyptiaca Bononiensia I; Monografie di SEAP, Series Minor 2, Pisa 1991, 105-130. ペリパウトに関しては早稲田大学文学部助教授・近藤二郎先生にさまざまな御教示をいただいた。記して感謝申し上げる。(本文に戻る)
(v) ポンペイと同じく、ヴェスヴィウス火山の突然の噴火によって埋まった古代ローマの都市ヘルクラネウム(エルコラーノ)からも多数の家具が発見されており、最近詳しい報告がなされたが、これらは生活用品として使われたものである。Cf. S. T. A. M. Mols, Wooden Furniture in Herculaneum: Form, Technique and Function, Amsterdam 1999. (本文に戻る)
(vi)楔形文字を記したアマルナ出土の粘土板の文書による。W. L. Moran, Les Lettres d'El-Amarna, Paris 1987, EA 5; EA 31. (本文に戻る)
(vii) カイロのエジプト博物館所蔵、JE 62018。長さ1,790mm、幅680mm、高さ300mm(Bakerによる)。Cf. H. S. Baker, Furniture in the Ancient World: Origins and Evolution 3100-475 B. C., London 1966, 104, pls. 136-137; H. Carter, The Tomb of Tut.Ankh.Amen(邦訳:酒井傳六・熊田亨訳「ツタンカーメン発掘記」、筑摩書房、筑摩叢書185、1971年) III, London 1933, 111, pl. 32A; G. Killen, Ancient Egyptian Furniture I: 4000-1300 BC, Warminster 1980, 33-34, pls. 42-43, figs. 15-17; Ch. Desroches-Noblecourt, Tutankhamen: Life and Death of a Pharaoh(邦訳:佐貫健・屋形禎亮訳「トゥトアンクアモン」、みすず書房、1966年), New York 1963, 184, pl. 107a, b; N. Reeves, The Complete of Tutankhamun(邦訳:近藤二郎訳「図説黄金のツタンカーメン」、原書房、1993年), London 1990, 182. 本稿において掲載したアシュモレアン博物館グリフィス研究所(The Griffith Institute of the Ashmolean Museum, Oxford)所蔵の写真の複製の入手に際しては、同博物館のDr. Jaromir Malek、及びMs. Sue Hutchisonから多大な助力を得た。記して御礼申し上げる。Carterが残したトゥトアンクアメンの折り畳み式寝台に関する未刊行資料の入手に当たっては、Dr. Nicholas Reevesに御尽力をいただいた。記して心より感謝申し上げたい。(本文に戻る)
(viii) Killen, op. cit. note (vii), 74-98の"Catalogue of Museum Collections"を参照。ただし、彼はトゥトアンクアメン王墓から出土した寝台の数を5台と誤認しており(ibid., 31)、おそらくは現在ルクソール博物館に展示されている1台の存在に気づかず、エジプト考古学博物館に展示されている5台の寝台だけを考慮していると思われる。なお埋葬の際に用いられたと考えられている、儀式用の丈の高い寝台は用途が異なるため、ここでは除外した。Cf. Reeves, op. cit. note (vii), "The Ritual Couches", 146-149; F. Tiradritti ed., The Treasures of the Egyptian Museum, Cairo 1999, 222; A. F. El Sabbahy, "A Funerary Bed from the Tomb of Sen-Nedjem", Discussions in Egyptology 43 (1999), 13-18. (本文に戻る)
(ix) 最も代表的なものは、古王国時代第4王朝のクフ王の母であったヘテプヘレスの寝台であろう。G. A. Reisner and W. S. Smith, A History of the Giza Necropolis II: The Tomb of Hetepheres, the Mother of Cheops, Cambridge 1955, 14. (本文に戻る)
(x) MMA 20.2.13。6本の脚を持ち、中央の対の脚の近くに取り付けられた青銅製の蝶番によって2つ折りにできるように造られており、第18王朝時代の墓から出土したものと考えられている。Cf. H. E. Winlock, The Private Life of the Ancient Egyptians, New York 1935, fig. 5; N. E. Scott, The Home Life of the Ancient Egyptians, New York 1944, fig. 30; W. C. Hayes, The Scepter of Egypt: A Background for the Study of the Egyptian Antiquities in the Metropolitan Museum of Art II. The Hyksos Period and the New Kingdom (1675-1080 B. C.), New York 1959, 203, fig. 118; N. E. Scott, "Our Egyptian Furniture", Bulletin of the Metropolitan Museum of Art 24 (1965), 139, fig. 41; H. G. Fischer, "Bett", in W. Helck and E. Otto eds., Lexikon der Ägyptologie I (Wiesbaden 1975), cols. 767-768. なお同じ場所から出土した遺物、MMA 20.2.14 A-Eもまた同形の、2番目の寝台の模型であると推測がなされている。これらの遺物に関してはメトロポリタン美術館古代エジプト部門(Department of Ancient Egypt in the Metropolitan Museum, New York)のDr. James Peter Allenから貴重な情報の提供を得た。記して深く感謝申し上げる。(本文に戻る)
(xi) H. Burtonによる写真はメトロポリタン美術館にも収蔵されている。Cf. Hayes, op. cit. note (x), 302. (本文に戻る)
(xii) H. Murray and M. Nuttall, A Handlist to Howard Carter's Catalogue of Objects in Tut'ankhamūn's Tomb. Tut'ankhamūn's Tomb Series (以後、TTSと略) I, Oxford 1963; J. Ĉerný, Hieratic Inscriptions from the Tomb of Tut'ankhamūn. TTS II, Oxford 1965; W. McLeod, Composite Bows from the Tomb of Tutankhamun. TTS III, Oxford 1970; W. McLeod, Self Bows and Other Archery Tackle from the Tomb of Tutankhamun. TTS IV, Oxford 1982; F. F. Leek, The Human Remains from the Tomb of Tutankhamun. TTS V, Oxford 1972; L. Manniche, Musical Instruments from the Tomb of Tutankhamun. TTS VI, Oxford 1976; W. J. Tait, Game-Boxes and Accessories from the Tomb of Tutankhamun. TTS VII, Oxford 1982; M. A. Littauer and J. H. Crouwel, Chariots and Related Equipment from the Tomb of Tutankhamun. TTS VIII, Oxford 1985; D. Jones, Model Boats from the Tomb of Tutankhamun. TTS IX, Oxford 1990; M. Eaton-Krauss and E. Graefe, The Small Golden Shrine from the Tomb of Tutankhamun, Oxford 1985; H. Beinlich und M. Saleh, Corpus der hieroglyphischen Inschriften aus dem Grab des Tutanchamun, Oxford 1989; M. Eaton-Krauss, The Sarcophagus in the Tomb of Tutankhamun, Oxford 1993; J. Baines ed., Stone Vessels, Pottery and Sealings from the Tomb of Tut'ankhamun, Oxford 1993. (本文に戻る)
(xiii) Reeves, op. cit. note (vii), 182, figure in the middle. (本文に戻る)
(xiv) Carter, op. cit. note (vii), pl. 31. (本文に戻る)
(xv) Carter, op. cit. note (vii), 111. (本文に戻る)
(xvi) Ch. Desroches-Noblecourt, op. cit. note (vii), 184. 王族の墓に納められた副葬品には、しばしば折り畳み式や組み立て式の家具がうかがわれる。早くは第4王朝時代にヘテプヘレス女王の組み立て式テントなどが造られており、寝室のしつらえが旅行に携帯することができるように考案されたと言われている。Cf. I. Shaw and P. Nicholson, "Furniture", in The British Museum Dictionary of Ancient Egypt(邦訳:内田杉彦訳「大英博物館・古代エジプト百科事典」、原書房、1997年), London 1995, 106-107; G. Killen, op. cit., 35-36. なお、折り畳み式の椅子全般に関してはO. Wanscher, Sella Curulis: The Folding Stool: An Ancient Symbol of Dignity, Copenhagen 1980が包括的な考察をおこなっている。(本文に戻る)
(xvii) Baker, op. cit. note (vii), 104-105, pls. 136-137. (本文に戻る)
(xviii) G. Killen, Ancient Egyptian Furniture II: Boxes, Chests and Footstools, Warminster 1994. この他に一般向けにまとめた小冊子、G. Killen, Egyptian Woodworking and Furniture, Shire Egyptology 21, Princes Risborough 1994を著わしている。同著者による"Ancient Egyptian Carpentry, its Tools and Techniques", in G. Herrmann ed., The Furniture of Western Asia ancient and traditional, Mainz 1996, 13-20は主に木工技術からの考察である。またR. Gate et al., "Wood", in P. T. Nicholson and I. Shaw ed., Ancient Egyptian Materials and Technology, Cambridge 2000, 334-371の項の執筆もおこなっている。(本文に戻る)
(xix) Killen, op.cit. note (vii), figs. 15-17. (本文に戻る)
(xx) D. Svarth, Egyptisk møbelkunst fra faraotiden =Egyptian Furniture-making in the Age of the Pharaohs, Denmark 1998, 54-55. (本文に戻る)
(xxi) H. G. Fischer, op. cit. note (x)(本文に戻る)
(xxii) H. G. Fischer, "Möbel", in W. Helck and E. Otto eds., Lexikon der Egyptologie IV, Wiesbaden 1982, cols. 180-189. (本文に戻る)
(xxiii) P. Der Manuelian, "Furniture", in R. E. Freed, et al. eds., Egypt's Golden Age: The Art of Living in the New Kingdom 1558-1085 B. C., Boston 1982, 63-66; P. Der Manuelian, "Furniture in Ancient Egypt", in J. M. Sasson ed., Civilization of the Ancient Near East III, New York 1995, 1623-1634. (本文に戻る)
(xxiv) H. E. Winlock, "Egyptian Furniture and Musical Instruments", Bulletin of the Metropolitan Museum of Art 8, no.4 (1913), 72. (本文に戻る)
(xxv) Killenによれば、第3王朝時代、ヘシラーの墓内壁画において初めて傾けられた寝台が認められるとされている。興味深いことにそれらの寝台には後脚が見られず、寝台の端部が床に接して描かれている。Killen, op. cit. note (vii), 26-28. (本文に戻る)
(xxvi) 新王国時代では全般に寝台の直線的な傾きは小さくなり、これに代わって撓んだ曲線を施すようになる。Der Manuelianは新王国時代において寝台を傾ける慣例が廃されたとのみ記しているが、むしろ寝台の緩やかな傾斜は新王国時代において、撓みに代わったとみなすべきであろう。Der Manuelian 1982, op. cit. note (xxiii). (本文に戻る)
(xxvii) Reeves, op. cit. note (vii), 182. (本文に戻る)
(xxviii) A. Lucas and J. R. Harris, Ancient Egyptian Materials and Industries, London 1962 (4th ed.), 432; R. Meiggs, Trees and Timber in the Ancient Mediterranean World, Oxford 1982, 279-299. ただし、拡大鏡によって産地を識別することは非常に困難であり、その特定には慎重な判断が必要である。樹種の同定の方法に関しては農林水産省林野庁森林総合研究所の緒方健氏、藤井智之氏に数多くの御教示を賜った。記して厚く御礼申し上げる。またスギの産地同定についてはA. Nibbi, "Some Remarks on the Cedar of Lebanon", Discussions in Egyptology 28 (1994), 35-52; A. Nibbi, "Cedar Again", Discussions in Egyptology 34 (1996), 37-59も参照。(本文に戻る)
(xxix) 千葉県筑波の森林総合研究所で所蔵されているレバノンスギのサンプルは比較的樹齢が若く、本例に類似したややぼやけた木目が観察される。またフットボードにうかがわれる線状の欠損部と良く似た虫喰いの痕跡も見られる。(本文に戻る)
(xxx) D. E. Derry, "Report on the Uncovering of the Mummy of King Tutankhamon", in Leek, op. cit. note (xii), 16. (本文に戻る)
(xxxi) 当時の製材の寸法限度が、およそ170cmであったのではないかという推測をKillenは述べている。Killen, 1994, op. cit. note (xvii), 12. (本文に戻る)
(xxxii) H. G. Fischer, "A Chair of the Early New Kingdom", in Varia Nova: Egyptian Studies III, New York 1996, 145-148. (本文に戻る)
(xxxiii) Fischer, op. cit. note (xxxii), 145-146. (本文に戻る)
(xxxiv)この寝台の模型が有する脚の意匠はきわめて珍しく、古代エジプトの王朝時代には類例がほとんどうかがわれない。一般にフレアー型と呼ばれている脚と、断面が円形である点においては相似を示すが、形状が大きく異なり、明確に区別すべきであろう。フレアー型の脚を有する腰掛けについてはP. Der Manuelian, "Notes on the So-called Turned Stools of the New Kingdom", in W. K. Simpson and W. M. Davis eds., Studies in Ancient Egypt, the Aegean, and the Sudan: Essays in honor of Dows Dunham on the occasion of his 90th birthday, June 1, 1980. Boston 1981, 125-128に詳しい。(本文に戻る)
(xxxv) 脚台にはCarter No. 64という番号が付けられている。現在うかがわれる展示ではしかし、脚台が誤った位置に置かれているため、本来計画されていた寝台の反り上がりの曲線を見ることができない。(本文に戻る)
(xxxvi) H. Frankfort and J. D. S. Pendlebury, The City of Akhenaten, Part II: The north suburb and the desert altars, London 1933, pl. XVIII, 2. ただし、扉の軸擦りに用いられたと考えられている同様の形状をした石灰岩製の出土遺物も報告されている。Cf. L. Borchardt, "Ausgrabungen in Tell el-Amarna 1911", in Mitteilungen der Deutschen Orient-Gesellschaft zu Berlin 46 (November 1911), 25-26; T. E. Peet and C. L. Woolley, The City of Akhenaten, Part I: Excavations of 1921 and 1922 at El-Amarneh, London 1923, 59, pl. 15, 2; B. Bruyère, Rapport sur les fouilles de Deir el-Medineh (1934-1935) III: Le village, les decharges publiques, la station de repos du col de la Vallee des Rois. Le Caire 1939, 213, fig. 102. (本文に戻る)
(xxxvii) H. Murray and M. Nuttall, op. cit. note (xii), 5. (本文に戻る)
(xxxviii)以下の論考は西本真一「古代エジプト建築の扉の蝶番」、史標36、早稲田大学理工学部建築史研究室、9-18に多くを負う。(本文に戻る)
(xxxix) W. M. F. Petrie, Illahun, Kahun and Gurob, London 1891, 19; pl. XX, 10. (本文に戻る)
(xl) Petrie, op. cit. note (xxxix). (本文に戻る)
(xli) W. C. Hayes, op. cit. note (x), 189-190. (本文に戻る)
(xlii) D. Arnold, The Pyramid of Senwosret I: The South Cemeteries of Lisht I, New York 1988, 99-105. (本文に戻る)
(xliii) Hayes, op. cit. note (x), 203. (本文に戻る)
(xliv) Cf. P. Lacovara, The New Kingdom Royal City, London 1997, 63ff; B. J. Kemp, "The Harim-Palace at Medinet el-Ghurab", Zeitschrift für Ägyptische Sprache und Altertumskunde 105 (1978), 122-33; A. P. Thomas, Gurob, 2 vols., Warminster 1981; W. M. F. Petrie: op. cit note (xxxix); G. Brunton and R. Engelbach, Gurob, London 1927. (本文に戻る)
(xlv) トゥトアンクアメン王の寝台、JE62017; Carter No. 80; Killen, op. cit. note (vii), 31-32でも白色塗料が全体に施されているが、このように網細工部分も含めて全体を白く塗る例は珍しい。カーの腰掛け(トリノ博物館 Inv. No. S. 8614)もやはり全体を白色塗装している; Killen 1980, op. cit. note (vii),47。同じくカーの寝台は残念ながら網部分が復原されているのであるが、やはり白色塗装が見られる(E. Leospo, "Woodworking: Furniture and Cabinetry", in A. M. Donadoni Roveri ed., Daily Life: Egyptian Museum of Turin, Egyptian Civilization, Turin 1988, 150-151)。(本文に戻る)